潮待ちの港として発展し、時代とともにその姿を柔軟に変化させてきた鞆の浦。瀬戸内の要港として戦乱に巻き込まれ続け、坂本龍馬率いる海援隊が鞆の浦に上陸するきっかけとなった「いろは丸事件」や、幕末の「七卿落」の舞台にもなりました。
鞆の浦に伝わる悠久の歴史ロマンに浸りながら、歴史的な出来事にまつわる史跡や神社仏閣を巡るモデルコースをご紹介します。
『鞆の浦観光情報センター』で観光マップを手に入れよう
このモデルコースを教えてくれたのは、「鞆の浦しお待ちガイド」の吉岡睦雄さん。鞆の浦しお待ちガイドは、土・日・祝日限定で無料ツアーを行っており、約1時間半かけて鞆の浦を案内してくれます。
予約制の個別ツアー(有料)なら、希望に応じてオリジナルの観光コースを提案してくれますよ。申し込みは『鞆の浦観光情報センター』へ。
『鞆の浦観光情報センター』には、パンフレットやマップなども豊富に揃っているので、まずはこちらで情報を手に入れてから観光をスタートしましょう。
鞆の浦観光情報センター
住所/広島県福山市鞆町鞆416
電話/084-982-3200
鍛冶の神様を祀る南北朝時代の古戦場 – 小烏神社
鍛冶を生業とする人たちが、氏神として祀ったのが起源と言われている『小烏神社』。
南北朝時代の古戦場でもあり、大可島城に赴任していた足利直冬と、足利尊氏の側近・高師直(こうのもろなお)が兵馬を交えた小烏の森の合戦の舞台とされています。
小烏神社
住所/広島県福山市鞆町後地
鞆の浦の繁栄を今に伝える古刹 – 備後安国寺
法灯禅師が1273年に金宝寺として建立。度重なる戦火で荒廃していたところ、足利尊氏が南北朝動乱の戦死者を弔うために再興したとされる『備後安国寺』。
釈迦堂、本尊の阿弥陀三尊像、法燈国師坐像、作庭家・重森三玲が復元した枯山水庭園など、文化財の宝庫です。1275年に作られた法燈国師坐像は、日本最古の頂相彫刻であり寿像。
さらに、参道には鎌倉時代に造立された高さ約2mの地蔵菩薩が鎮座しており、当時から相当な財力を持った人物が鞆にいたことを示す重要な証となるそう。
備後安国寺
住所/広島県福山市鞆町後地990-1
電話/084-982-3207
開門時間/8:00〜17:00
拝観料/一般150円 大学生100円 高校生以下無料
秀吉から譲り受けた日本唯一の組立式能舞台 – 沼名前神社
木々に包まれるように凛と佇む『沼名前神社』。地元の人には「祇園さん」「ぎょんさん」と呼ばれ親しまれています。海上安全、漁業繁栄、家内安全、病気平癒、学業成就、安産等のご神徳があるといわれ、鞆の浦における数々の神事やお祭りの舞台にもなる神社です。
境内には、豊臣秀吉が将兵らのために造ったといわれる組立式能舞台(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)があります。京都・伏見城が廃城となったときに譲り受けた福山城主・水野勝成が寄進。日本唯一の組立式能舞台で、現在も能楽祭の舞台として使用されています。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)
住所/広島県福山市鞆町後地1225
電話/084-982-2050
室町幕府創始のきっかけとなった場所 – 小松寺
平安時代末期の武将・平重盛が建立した『小松寺』。
「豊島河原の戦い」に敗れて京から落ち延びた足利尊氏が、光厳上皇(こうごんじょうこう)の院宣(いんぜん)を受け、反転攻勢を始めるきっかけとなった場所です。足利家最後の将軍・義昭もまた、織田信長によって京を追われ、毛利の庇護のもと鞆の浦へ。
これらの逸話から、「室町幕府は鞆の浦に始まり、鞆の浦に終わる」と考えられているそう。200年以上に渡って続いた室町幕府に鞆の浦がこれほど深く関わっているなんて、すごいと思いませんか?
小松寺
住所/広島県福山市鞆町後地1227
電話/084-982-3348
鞆の浦に現存する最古の寺 – 静観寺
806年、最澄により創建された『静観寺』(じょうかんじ)は、鞆の浦で最も古いお寺。かつては五重塔が2基建ち並ぶほど栄えていましたが、相次ぐ戦乱や火災によって多くの文化財が焼失してしまったそうです。
静観寺
住所/広島県福山市鞆町後地1199
電話/084-982-3019
身分違いの恋に落ちた男女の悲しい伝説 – ささやき橋
静観寺からほど近い通りの途中に、言われなければ気付かないほど小さな石橋『ささやき橋』はあります。
昔々、百済からの客人をもてなすために派遣されながらも、身分違いの恋に落ちてしまった接待官と官妓。関係を許されない2人は、後ろ手に縛られ海に沈められてしまったのです。
この橋のたもとから、恋する2人のささやき声が聞こえる……という伝説からその名が付けられました。
主家の再興を願い戦った誉れ高い武士 – 山中鹿介首塚
毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人、山中鹿之助。主家の再興を願い兵をあげるも叶わず、高梁川「阿井の渡し」で討たれてしまいます。その首が鞆の浦に運ばれ、将軍・足利義昭が首実験をしたあと、この地に葬られたそうです。
福山城から移築された江戸時代の長屋門 – 岡本家長屋門(岡本亀太郎本店)
保命酒醸造元のひとつ『岡本亀太郎本店』の店舗は、なんと福山城の長屋門を活用したもの。廃城令によって福山城が取り壊された1873年、火災で建物を焼失した岡本家が譲り受け、店舗を復興したそう。江戸時代初期の福山城郭内の遺構として、市の重要文化財に指定されています。
岡本家長屋門(岡本亀太郎本店)
住所/広島県福山市鞆町鞆927-1
電話/084-982-2126
港の風景に欠かせない陸と海をつなぐ石段 – 雁木
鞆の浦の港を語る上で欠かせないのが雁木。雁木とは船を着けるため、陸から海に向けて造られた石段のこと。江戸時代初期に造設された雁木はすでに埋め立てられてしまいましたが、現在も1811年に造られた「浜の大雁木」を常夜燈前で見ることができます。
(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)
今も昔も変わらない鞆の浦のシンボル – 常夜燈
鞆の浦といえば、まず思い浮かべるのが堂々とした姿で港に佇む石造りの常夜燈。1859年に建造されたこの常夜燈は、海中の基礎部分を入れると高さは10mを超え、港に現存する常夜燈として日本一の大きさを誇ります。
夕方には灯りがともり、昼間とは異なる風情が楽しめます。
(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)
瀬戸内海の近世商家建築を代表する一軒 – 太田家住宅
常夜燈へと向かう小路の途中にある『太田家住宅』。
明治時代に太田家の所有となりましたが、元は保命酒の蔵元・中村家の屋敷でした。母家を囲うように保命酒蔵が並び、往時の構えをそのまま残していることから国の重要文化財に指定されています。市松模様のモダンな土間、網代天井、酒蔵の漆喰やなまこ壁の装飾など、その豪壮な造りは見事。
また、道を挟んで建てられた『朝宗亭』は、藩主の滞在にも使われた別邸。幕末、尊王攘夷を唱える三条実美ら七卿が長州へ逃れる途中に立ち寄った「鞆七卿落遺跡」として県史跡に指定されています。
(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)
太田家住宅
住所/広島県福山市鞆町鞆842
電話/084-982-3553
仲仕たちが腕力を競った石の重さは数百キロ! – 鞆の津の力石
海運業が盛んだった鞆の浦では、船の積荷を揚げ下ろしする仲仕たちが多数従事していました。力自慢の彼らは、祭礼などの場で力石を使って互いに競い合っていたそう。
沼名前神社に20個、住吉神社に3個の力石が奉納されており、61貫(230kg)から32貫(118kg)と驚きの重さです!
(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)
坂本龍馬が決死の談判を行った地 – 龍馬交渉跡(御舟宿いろは)
1867年、鞆沖合で坂本龍馬を乗せた海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の軍艦「明光丸」が衝突。いろは丸は積み荷もろとも沈没してしまいます。そして、この海難事故をきっかけに坂本龍馬をはじめとする関係者たちは鞆の浦に上陸。坂本龍馬が紀州藩の船長と賠償交渉を始めたのがこの場所です。
龍馬交渉跡(御舟宿いろは)
住所/福山市鞆町鞆670
電話/084-982-1920
往時の面影を残す江戸期の商家 – 鞆の津の商家
江戸時代末期に建てられた商家らしい間取りの母屋と機能的な土蔵が、当時の鞆の町家の
典型であるとして、市の重要文化財に指定されている『鞆の津の商家』。
番頭が座る帳場に置かれた、鉄製の小物や調度品、年季の入ったそろばんなどの商売道具、中の間にある火鉢や箪笥階段を見ていると、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分に浸れます。
(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)
鞆の津の商家
住所/広島県福山市鞆町鞆606
電話/084-928-1117(福山市文化振興課)
開館時間/土日祝10:00〜16:00
朝鮮通信使が讃えた絶景の客殿 – 福禅寺 対潮楼
重厚な石垣が印象的な高台に悠々と建つ『福禅寺 対潮楼』。屋内からは、窓枠を額縁に見立てた見事な景色が広がります。
幾度となく鞆の浦へ立ち寄った朝鮮通信使の中でも、位の高い人が滞在する客殿として使われていたのがここ。1711年、朝鮮通信使の李邦彦(イバンホン)は、対潮楼からの景色を「日東第一形勝」、つまり“日本で一番美しい景勝地”と讃えました。
福禅寺 対潮楼
住所/広島県福福山市鞆町鞆2
電話/084-982-2705
亡き妻をしのぶ大伴旅人の想い – むろの木歌碑
日本最古の歌集「万葉集」には鞆の浦を詠んだ和歌が8首もあり、福山市営渡船場前の植え込みにあるむろの木歌碑はそのひとつ。
「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞなき」
730年、大伴旅人が太宰府の役人の任期を終えて都へ帰る途中、亡き妻をしのぶ気持ちを詠んだ歌です。この歌は万葉集の中でも傑作と称されています。
頼山陽が名付けた絶景の楼閣 – 対仙酔楼
鞆の浦の豪商・大坂屋が建てた門楼。2階には眺望の良い座敷があり、弁天島や仙酔島を一望できる造りになっています。招かれて滞在した江戸時代の思想家・頼山陽は、この景観をたたえて「対仙酔楼」と名付けました。
(日本遺産「福山・鞆の浦」構成文化財)
対仙酔楼
住所/広島県福山市鞆町鞆
坂本龍馬がひそんだ屋根裏の隠し部屋 – 桝屋清右衛門宅
「いろは丸事件」をきっかけに坂本龍馬をはじめとする関係者たちは鞆の浦に上陸。数日間滞在し、事故の損害賠償に関する交渉を行ったとされています。
廻船問屋を営んでいた『桝屋清右衛門宅』は、当時、坂本龍馬が滞在した商家。命を狙われていた龍馬が才谷梅太郎という偽名を使用し身をひそめた、屋根裏の隠し部屋の見学ができます。
屋根は本瓦葺きで、建物を大きく見せるため表側を長く備えた造り。派手好きな鞆っこの気質を分かりやすく表した一軒でもあります。
また、坂本龍馬にしろ、七卿にしろ、世間では悪とされている人物をかくまい支援してきた鞆の人たち。おおらかで、時代を先読みする力や世論に流されない意志の強さを秘めていたのかもしれません。
桝屋清右衛門宅
住所/広島県福山市鞆町鞆422
電話/084-982-3788
そのほか、坂本龍馬ゆかりの地を巡るコース、温泉やグルメなど鞆の浦をアクティブに楽しむコースもご紹介しているのでぜひご覧ください。