鞆の発祥は定かではありませんが、日本最古の歌集『万葉集』には鞆の浦を詠んだ和歌が八首もあり、この頃にはすでに港としての役割を果たしていたことが伺えます。船が風と潮の流れを利用していた時代、瀬戸内海の潮の分かれ目となる鞆の浦には潮の満ち引きを待つ船が数多く集いました。“潮待ちの港”として栄えたこの町には、多くの武人、文人、芸術家が交わり、先進的な歴史と文化を形成。瀬戸内の要港として戦乱に巻き込まれ続け、坂本龍馬のいろは丸事件、七卿落の舞台にもなりました。歴史的な出来事にまつわる史跡や資料も多く残されています。鞆の浦に伝わる悠久の歴史ロマンを知れば、町歩きがもっと楽しくなりそうです。


たくさんのヒト・モノ・コトが集う潮待ちの港

瀬戸内海に突き出た沼隈半島の東南端に位置する鞆の浦。東は紀伊水道から、西は豊後水道からの満ち潮が沖合でぶつかるため、船はその潮に乗って鞆の港へ入り、引き潮に乗って再び船出します。さらに、仙酔島や玉津島など周辺の島々が防波堤の役割を果たす天然の良港でもあります。潮と潮が出合う場所。たったそれだけのようですが、潮の流れに左右される海運において要衝の地とされ、“潮待ちの港”として栄えていったのです。

戦乱の時代から幕末まで、悠久の歴史絵巻

西日本における海上交通の要所であり、人々が交流する場所であっただけに、布教や政治の拠点にもなった鞆の浦。200年以上に渡って続いた室町幕府は、足利尊氏が光厳上皇の院宣を鞆の浦で受け取ったことから始まったとされています。また、室町幕府最後の将軍、足利義昭は織田信長によって京を追われ、毛利の庇護のもと鞆の浦へ。『福山市鞆の浦歴史民俗資料館』には、足利氏の御所に飾られていたと考えられる鬼瓦が保管されており、「きっとこの地に“鞆幕府”があったに違いない」と思わせてくれます。残念ながら義昭の室町幕府再興の夢はついえてしまいますが、“足利は鞆に興り、鞆に滅ぶ”といわれています。

江戸時代には、安芸・備後の領主として福島正則が入部し鞆城を築城し、城下町として整備されていきますが、一国一城令により廃城。その後、鞆は次第に港町としての性格を強め、“鞆の津”と呼ばれるようになりました。保命酒が生まれたのもこの頃。北前船や九州船が寄港し、鞆の商業や文化は著しい発展を遂げていきます。朝鮮通信使、琉球使節団、オランダ商館長などが鞆の津を訪れ、活気と豊かさに満ちあふれた町の様子を書き記した文献も数多く残されています。

また1867年には、坂本龍馬率いる海援隊と紀州藩の蒸気船同士が衝突し、日本初の万国公法による海難審判を起こした「いろは丸事件」の舞台にもなりました。

鞆の歴史を凝縮した学びの館「歴史民俗資料館」
鞆の薬味酒・保命酒はここで生まれた!「太田家住宅」
屋敷の天井裏に龍馬がいた!?「龍馬の隠れ部屋」

近代化の波に呑まれることなく残された歴史ある町並み

明治維新を境に日本には近代化の嵐が吹き荒れ、鞆の浦も商業港から保命酒や鞆鍛治といった伝統産業の町へと移り変わっていきました。また、1925年に国の名勝『鞆公園』に、1934年に瀬戸内海が国立公園に指定されるなど、仙酔島をはじめとする名所旧跡を活かした昔ながらの風情を残した町となりました。さらに、江戸中期までに整えられた地割に、伝統的な町家や寺社、石垣などの石造物、港湾施設などが一体となって残る瀬戸内の港町としての歴史的な趣が高く評価され、2017年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。宮崎駿監督作品『崖の上のポニョ』をはじめ、様々な映画、小説、テレビドラマの舞台としても知られています。

港町の面影を今に残す「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」