室町時代末、織田信長が天下布武をめざすなか、京都から追放された室町幕府十五代征夷大将軍・足利義昭は、天正4年(1576年)、由良(和歌山)から海路で鞆へ上陸し、小松寺に入りました。

毛利輝元の庇護を受け、鞆で亡命政権を構えた義昭は、多数の近臣らに支えられ、将軍として数多くの花押を添えた公帖を発給するなど、一定の権威を持ちました。また、義昭は毛利輝元や上杉謙信など、諸国の武将や大名に多数の御内書を送り、上洛への協力と打倒信長を訴え続けました。

 

天正10年(1582年)、本能寺の変で明智光秀により信長が討たれると、毛利氏に上洛を訴えた義昭でしたが、天下の情勢は豊臣秀吉になびき、上洛の願いは叶いませんでした。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州出征する途中、義昭は備後赤坂で秀吉と面会しました。その後、義昭は秀吉に協力し、島津義久と秀吉の和睦を斡旋するなどの活躍を見せました。この功績もあり、義昭は天正15年(1587年)に京都へ戻ります。京都を追われてから、実に15年ぶりの帰京でした。

天正16年(1588年)、義昭は将軍職を辞すると出家し、昌山道休と名乗ることとなりました。

鞆を拠点に幕府の再興を企てていた義昭と鞆には、深い結び付きがあったのです。

義昭所縁の安国寺

安国寺

 

 

 

 

 

 

 

義昭が身を寄せた小松寺

義昭が逗留した常国寺(福山市熊野町)

鞆の港の風景