瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置する鞆の浦は、日本最古の歌集である『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ和歌が八首あることから、万葉の時代から既に港としての役割を果たしていました。
1630年代ごろから鞆の浦は港町としての性格が強まり、「鞆の津」と呼ばれるようになります。北海道〜大阪を結ぶ北前船(きたまえぶね)をはじめ、朝鮮通信使や参勤交代の西国大名、オランダ商館長、琉球使節なども鞆の津に来航し、港町、商業都市として繁栄を極めました。
江戸時代の港湾施設には、「常夜燈」「雁木」「波止」「焚場」「船番所」という5つの設備が整っていることが求められましたが、その5つがほぼ完全な形で残っているのは、何と鞆の浦だけ!
だからこそ鞆の浦は全国的に見ても珍しく、日本の歴史を伝え残すための貴重な場所なのです。
常夜燈 – 古今変わらぬ鞆の浦のシンボル
『常夜燈(じょうやとう)』は灯台のことで、今も昔も鞆の浦のシンボル的存在です。
地元の人は「とうろどう(燈籠塔)」と親しみを込めて呼んでいます。
鞆の浦の常夜燈は、港に現存する江戸時代のものとしては日本最大級の大きさを誇ります。海に隠れた亀腹型石積の上に建っており、その石積を入れれば高さ10mを越えます。
竿柱の西面には『安政六年己未七月』とあり、1859年に建造されたことが分かります。
暗い夜の海からこの燈籠の灯りが見えたとき、旅人たちはほっと胸をなで下ろしていたのでしょう。
雁木 – 国内外の人・物が行き交う海の出入り口
『雁木(がんぎ)』とは、陸から海に向かって降りる石段のこと。
全長約150m、最大24段もの石階段が鞆港をぐるりと囲むように造られており、石造りとしては国内最大級の規模を誇ります。
文献で確認できるものは、江戸時代初期に船着き場を造ったという記録が最初ですが、昭和30年代に埋め立てられてしまいました。現在残っている雁木は、1811年に造られた『浜の大雁木』。保命酒浜大雁木、涌出(わくで)浜大雁木などとも呼ばれます。
雁木は現在も船着き場として活用されています。石段に腰掛ければ鞆の浦に流れるゆったりとした時間を感じることができます。
波止 – 鞆の津を包み込む海の石垣
『波止(はと)』とは、台風などの強風や高波から船を守るために海中に設置された防波堤のこと。波止場ともいわれます。
鞆の浦には江戸時代に造られた石積みの波止が現存しており、鞆湾の東側にある大可島下の波止、鞆湾の西側の淀姫神社下の波止、その南方の玉津島下の波止の3基が、まるで鞆の浦をやさしく包み込むように延びています。
石造りの波止としては国内最大級の規模で、いかに鞆の浦の港が重要視されていたかが分かります。
石造りの波止が穏やかな海にするりと延びる光景はまさに瀬戸内らしく、眺めるのはもちろん、陸続きなので歩いて端まで行くことができます。
焚場跡 – 船大工で賑わう船のメンテナンス場
木造船はフジツボやカキなどの貝類や海藻が付着したり、フナムシがついたりするため、船底を焼いて乾燥させる必要があります。これを「たでる」といい、船をたでる場所を「焚場(たでば)」と呼びました。
鞆の浦は錨(いかり)や船釘の産地でもあり船大工の技術者も多かったため、この焚場では船の修理も行われました。
港町・鞆の商業は主に他国がクライアントだったため、他国船を誘致することは町の死活を左右するほど大きな問題。そのため江戸時代の初期には既に、入港した船の修理や船たでの場所として、砂場や岩磐を削ってつくった焚場が整備されていたようです。1800年ごろには、年間約900隻もの大型船が焚場に入っていたという記録もあります。
現在も鞆港の西側には漁船をつないだ焚場が残っており、往時の風景を描いています。
船番所跡 – 海と町の安全を見守る遠見番所
『船番所(ふなばんしょ)』とは、港に出入りする船を取り締まり、また船の出入りの安全を監視する場所のこと。「遠見番所」とも呼ばれます。
鞆の浦の船番所は、江戸時代初期に港の東端にある大可島(現在は埋め立てられ陸続きになっている)の石垣の上に建てられました。
現在の建物は昭和30年ごろに建て替えられたものですが、その下の石垣は江戸時代に積み上げられたもの。
船番所の近くには鐘楼もあり、時の鐘として、また周辺で緊急の事態が起こった際の警鐘として使われていたようです。